処置に入る前から、心臓が大きく波打つ。指先が冷たくなり、手の震えが始まる。
手技そのものは何年もやってきたはずなのに、いつからか、その手が自分のものでないように感じる。
今回紹介するのは、そんな手の震えに悩んでいた中堅の集中治療室の麻酔科医です。
私はメンタルコーチとして、この医師と4カ月で全8回の個別セッションを行いました。
その中で、術前から始まる強い予期不安は次第に小さくなり、処置中に手が震えることがあっても、そこから不安と震えを増幅させず、多少震えがあっても問題なく手技を続けられるようになっていきました。
この記事では、最初に何から手をつけ、呼吸やイメージトレーニングをどう現場につなげ、震えと予期不安がそれぞれどう変わっていったのかを紹介します。
科は違っても、視線を受けながら細かい手技を行う医師には、通じるところがあると思います。
立場が変わったところで、震えが始まった
彼は、もともと手技が不得意だったわけではありません。
年次が上がり、後輩から見られる立場になったころから、失敗できない、できて当たり前だという意識が強くなり、そこから震えが出るようになりました。能力が足りないから起きたのではなく、責任と視線が同時に増えたところで起きています。
特につらかったのは、重症患者の搬送連絡を受けてから到着までの20〜30分でした。
何をすべきかは分かっている。それでも待っている間に動悸が始まり、指先が冷たくなり、そこから手の震えへつながっていきます。
この時期は、ベータブロッカー(インデラル10mg)を4分の1にカットして、お守りとして飲んでいました。
一度だけ飲まずに臨んだときに心拍が急に上がり、制御を失いかけた経験があり、それ以来、薬を持たずに処置へ入ることに強い不安を感じるようになっていました。
これまでの対処と残っていた課題
この医師は、私のコーチングを受ける前にも、自分なりの対処法を探していました。
本やネット記事を読むだけでなく、別のカウンセラーやトレーナーのレッスンを受講して、自分の考え方を整える方法にも取り組んでいます。
具体的には、失敗したらどうしようと考え始めたときに、「今、自分がやるべきことだけに集中する」「結果ではなく、自分ができるプロセスに意識を戻す」といった形で、注意を目の前の行動へ戻す練習です。
これは一定の効果がありました。以前のように、震えが出たことで一気にパニックへ入ることは減っていました。
ただ、本人はそこに限界も感じていました。
考え方を整えても、処置を待っている間に心臓が大きく波打ち、手が冷たくなる身体の反応そのものは残ります。その状態でさらに「今に集中しよう」と考え続けること自体が、負担になっていました。
結局ドキドキするのは変わりません。その反応している状態で考えること自体が、結構なストレスでした。
もう一つの問題は、処置中に使える注意の量でした。
自分を落ち着かせるための言葉や考えに意識を使えば、その分だけ次の判断や手技に回せる余裕が減ります。本人にとってのもどかしさは、まさにそこにありました。
そこでセッションの前半では、考え方をさらに整えることよりも、まず身体の反応を整えることから始めました。
最初に呼吸から取り組む理由
私は、緊張や不安への対応では、まず呼吸法を身につけてもらうことを基本にしています。強い緊張の中でも、考え込まずにその場で使えるからです。
ただし、本番になったときだけ呼吸をすればいいわけではありません。一定のリズムでゆっくり整える呼吸を、普段から繰り返し練習してもらいました。
勤務が不規則な医師に、毎日まとまった練習時間を確保させるのは現実的ではありません。
そこで、朝の出勤前、通勤の移動中、勤務の合間というように、実施する場面を先に決めました。
さらに、やったかやらなかったかを記録に残し、セッションで私に報告してもらいました。
こうして普段から呼吸を繰り返しておくことで、緊迫した場面でも、身体の反応が大きくなったときにまず呼吸へ戻れるようになります。
実際、この土台ができてくるにつれて、それまで取り組んできた「今やるべきことに集中する」「自分にできるプロセスへ意識を戻す」といった考え方も、以前より自然にできやすくなっていきました。
予期不安が小さくなっていった背景にも、この順番があったと考えています。
手順の確認ではなく、持ち替えの数秒を自分の目線で
安定した呼吸ができるようになり、いつでも「今ここ」に意識が戻せるようになってきた段階で、イメージトレーニングの指導に入りました。
医師の多くは、頭の中で術式の段取りをなぞることには慣れています。ただ、それと、自分の目で術野を見ながら、実際に手を動かしている感覚まで再現することは別です。
彼もそうでした。
第三者の目線で、こんな感じにやるよね、というぼんやりした手術イメージはすぐできました。でも一人称で、自分がこれを持って、こう動かして、というイメージはまったく作れませんでした。
そこで、手術全体を思い浮かべるのではなく、どの場面で反応が強くなり、どこで震えが出やすいのかをセッションの中で確認していきました。
彼の場合は、エコーガイド下の穿刺で、針やデバイスを一方の手からもう一方の手へ持ち替える数秒でした。
この数秒だけを切り出し、手元に何が見えているか、指先にどんな感触があるか、どこで視線が移るかまで、自分の目線で繰り返し再現します。
うまくいく場面だけでなく、緊張が上がる場面や、思ったように画像が出ない場面も入れました。その中で、どこで呼吸を使うかも一緒に確認しています。
もう一つ、この医師には「針先を100点の画像で見ながら刺さなければならない」という基準がありました。
しかし、心臓マッサージ中など、理想的な画像が得られない状況もあります。そこで、100点の条件だけでなく、画像が十分に出ない場合にどう判断し、次に何を選ぶかまで、複数のパターンでリハーサルしました。
完璧さを捨てたのではなく、状況が崩れたときの選択肢を増やしたということです。
私が指導しているのは、手術そのものではありません。
手術でも、演奏でも、競技でも、実際に使っている技術や、本人がつまずいている課題は一人ひとり違います。
一方で、どこを切り出し、どの感覚まで再現し、どんな状況を組み込むかというイメージの設計と指導は、長くメンタルコーチを続けてきた中で蓄積されたノウハウにあります。
待つ時間が「楽しみだな」に変わった日
受講開始から約3ヶ月、7回目のセッションで、彼からこんな報告を受けました。
その前の週末に、最も緊張するはずの重症緊急症例の搬送連絡が入ったそうです。
以前なら、そこから到着までの20〜30分で心臓が大きく波打ち、パニック一歩手前まで行っていた時間帯です。
ところが、その日は強い予期不安に引き込まれることなく、少し呼吸をしただけで、そのまま静かに待つことができました。
下手に抗おうともせず、久しぶりにやるし楽しみだな、というくらいで少し呼吸をして、強い症状は出ずにやれました
以前のように、不安を消そうとして頭の中で何かを繰り返す必要がなくなっていました。
処置に入ってから訪れた没入=フロー体験
さらに大きな変化は、実際の処置に入ってから起きました。
やっている間も夢中で、あまり何も考えていないというか、そのことだけしか考えていませんでした。本当に集中していたので、呼吸してからどうしよう、と考えるところもなく、ただ目の前のことをひたすらやっていた感じでした
呼吸をどう使うか、震えたらどうするか、周囲からどう見られているか。そうしたことを意識する余地がなく、注意が目の前の処置だけに向いていました。
いわゆるフローに近い状態です。
震えを抑え込んだから集中できたのではなく、震えのことを考える必要がなくなった結果として、処置そのものに没頭できたということです。
震え自体は、どうなったか
約4ヶ月で震えが完全にゼロになったわけではありません。
処置の最中に、手がプルッとすることは残りました。
しかし変わったのは、そのあとです。
ちょっとプルッとしたときに、あ、今震えたな、ぐらいにしか思わなくて。でもそれが増幅することはなかったです
以前は、少しでも手が震えると、やばい、ミスるかもしれない、という不安が走り、動悸が上がり、震えがさらに大きくなっていました。
震えが不安を呼び、不安が震えを大きくする。この往復が、本人を一番苦しめていたものです。
4ヶ月後には、その往復が起きなくなりました。震えを自覚しても、あ、今震えたな、で終わる。そこから先へ広がらないので、手技が中断されません。
頻度についても、はっきりした形で確認できました。
11月の繁忙期に入り、最も緊張する重症症例への対応が短期間に4回ほど続きましたが、そのすべての現場で、かつてのようなパニックを伴う大きな震えは一度も起きていません。
震えを誘発する場面が増えたにもかかわらず、業務に支障が出る震えはゼロだった、ということです。
重い症例が来たときは、前はすごくうわっとなるし、スイッチが入るんですけど、今では、やばい、大丈夫かな、とはならずに、ま、やるか、というくらいで対応できます。
むしろ、処置を終えたあとに、もっと良い角度があった、と技術上の反省ができるようになったことも、大きな変化でした。
震えや周囲の視線ではなく、次にどう上達するかへ注意が向いています。
この4ヶ月で、彼が課題としていた「予期不安」と「手の震え」は、ゼロになったのではなく、それほど気にならないもの、大きくならないものに変わった。
この結果は、彼に限らず、多くコーチング受講生に起こる現実的な到達点です。
おわりに
この4ヶ月で私が行ったのは、呼吸法を一つ教えることではありません。
どの場面で反応が始まり、何に注意を奪われ、どの練習なら現場で使えるのかを一緒に確かめながら、呼吸、イメージ、選択肢の準備、評価の基準を順に組み直していくことでした。
経過も期間も人によって異なります。
この事例も、緊張が完全になくなった話ではありません。それでも、手の震えを性格や医師としての資質の問題にせず、体と注意と行動を整える練習として扱えば、現場での選択肢は増やせます。
手術中の手の震えについて、原因や一般的な対処から知りたい方はこちらをご覧ください。
薬に頼り続けることへの不安がある方はこちらをご覧ください。
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