手術中の手の震えは、多くの外科医が経験することです。
手の震えが小さければ、それほど手術に影響は及ぼしませんが、それが徐々に大きくなるにつれ、少しずつ影響を及ぼし始めるようになります。
「ここで失敗すると、取り返しがつかない」
「チームのメンバーに気づかれてはいけない」
「自分は外科医として失格なのではないか」
「この状態が続けば、手術を続けられなくなるかもしれない」
それがひどくなると、このようなマイナス思考に陥り、手の震えをさらに大きくしてしまうだけでなく、日々の生活にも暗い影を落とし始めます。
もしあなたが、こんな悪循環に陥っているなら、ぜひこの記事を最後まで読んでみて下さい。
この記事では、手術中の手の震えに悩む外科医のために、20年の経験を持つプロのメンタルコーチが、神経心理学の知見に基づいた、手の震えの原因と解決方法について解説していきます。
手の震えはどうして起こるのか?
プレッシャーへのストレス反応
手の震えの原因は様々です。
しかし、外科医が、難しい手術のときに手が震えるのは、プレッシャーが原因です。
手の震えというのは、典型的なストレス反応のひとつだからです。
しかし、ほとんどの外科医は、手術経験を重ねていく中で、徐々にそれに慣れていくので、すぐに手術で手が震えることはなくなります。
これを「馴化」と言います。
医学校で初めて人体解剖をしたときのことを思い出してみてください。
誰でも初めてのときには緊張しますよね?
馴化が起こった後でも、また何らかのプレッシャーがかかった場合、例えば、少し難しい手術や、見学者が大勢いるような場合だと、やはり震えることはあります。
ただ、多くの場合、手の震えが手術に悪い影響を及ぼすよりも、むしろ良い緊張感を生み出してくれたりもします。
ノンプレッシャーなのに起こる手の震え
ただ、馴化が起こった後、それほどプレッシャーがかからない、難しくない手術でも手が震えることがあります。
こういった偶発的な震えの原因を特定するのは難しいですが、可能性が高いのは、その日の体調や気分などの影響によるものです。
睡眠不足、カフェイン摂取、疲労などから、ホルモンや神経伝達物質、自律神経などのバランスが崩れてしまい、手の震えという症状が出てしまうのでしょう。
ほとんどの場合、翌日や翌週にはなくなっているので、それほど心配することもなく、いつの間にか忘れてしまいます。
ただ、こういった「偶発的な」手の震えがきっかけとなって、悪循環が始まることは少なくないと推測しています。
手術時に起こる常態化した手の震え
手の震えが問題となるのは、手術時のそれが常態化してしまったときです。
問題ですが、常態化の原因はかなり特定できます。
心理学的には「恐怖条件付け」であり、脳科学的には「トラウマ反応」です。
恐怖条件付け・トラウマ反応については、有名なパブロフの犬の話がとても参考になります。
ロシアの生理学者パブロフは、実験中、犬に餌を与える前に、鐘を鳴らしました。これを繰り返すと、鐘を鳴らすだけで、犬は唾液をたらすようになりました。
反対に、餌を与えるのではなく、鐘を鳴らすと同時に電気ショック与えることを続けると、鐘の音を聞くだけで、犬は怯えて震えるようになります。
「鐘の音」という条件が、「震え・恐怖」という反応に結びついたのです。
あなたが手術室で、手が震えるのは、この「恐怖条件付け」と呼ばれる神経メカニズムが原因です。
恐怖条件付け・トラウマ反応のメカニズムは、1990年代の脳科学の発展によって、かなり詳細にわかるようになってきました。
扁桃体という脳部位が、トリガー(刺激)に対して、無意識に反応してしまうのです。
トリガーとなるのは、手術室だったり、器具や道具だったり、チームスタッフの誰かだったり、ある手順だったりと様々です。
手術時の手の震えが常態化したときに起こること
手術中の手の震えが常態化すると、手術室に入る瞬間から、無意識のうちに体が反応を始めます。
さらには「また震えてしまうかもしれない」という予期不安が、実際の震えを引き起こす引き金となり、その経験が新たなトラウマとなって蓄積されていく—。
このトラウマの悪循環は、少なからずの外科医が経験するようです。
そして厄介なことに、このような手の震えが生み出す悪循環は、外科医のスキルや経験、性格や考え方とは無関係に進行していきます。
ある大学病院の眼科医は、医局での研究や後進指導だけでなく、〇〇手術のスペシャリストとして活躍していました。
国内外から同業が手術の見学に来るほどで、本人もそれを楽しんでいましたが、いつの間にか術中に少し手が震えるようになり、そしてある日、多くの見学者がいるなか、手術を中断せざるを得なくなるほどの酷い震えを経験をしてしまいました。
それ以降は、手術が継続できなくなるほどの震えは起きませんでしたが、できる限り、難しい手術や、見学のある手術を避けるようになっていました。
若手医師の中には、経験を重ねて、技術が向上すれば、こういった手術の手の震えはなくなるはず、と思われるかもしれませんが、そんなことはありません。
技術が上になればなったで、さらに難しい手術が待っています。
ですから、中堅・ベテランの外科医でも、このような手の震えを抱えている人は少なくありません。
手の震えの一般的な対処法
技術や腕前を上げて、自信をつける
ピアノ教室の先生や、スポーツクラブのコーチたちは、生徒や選手が本番を迎えるにあたり「自信をもって」と励まします。
確かに自信があれば、不安や緊張はそれほど大きくなりません。
そして、自信をつけるには、たくさん練習をして、技術を磨くのです。
同じように、外科医にとっても、手術の技術を磨くことは確かに有効です。
より正確な手技を身につけたり、新しい手術方法を学び続けることで、自分の技術や能力に自信を持てれば、それはストレスへの大きな耐性になるからです。
しかし、一度条件付けされてしまった手の震えは、単に技術的なトレーニングだけでは解決できないことがほとんどです。
むしろ、技術的な研鑽を重ねれば重ねるほど、そのギャップに苦しむことになることもあります。
こんなに頑張っているのに結果が出ない…。
こんな風に自分を追い込んでしまう方も少なくありません。
ベータ遮断薬に頼る
ご存じだと思いますが、ベータ遮断薬を使えば、手の震えの問題は簡単に解決できます。
ただ、服薬で中長期的に症状が改善するかというと、その効果は見込めず、基本的には使い続けることになります。
問題となるのは、なんらかの理由でベータ遮断薬を服用できなかった場合です。
これまで薬に頼っていたこともあり、久しぶりに体感する手の震えの大きさにパニックになってしまう可能性もあります。
また、手術が長時間に及ぶ場合には、何度も服用しなければならず、だるさや倦怠感、集中力の欠如を引き起こす可能性もあります。
なお、喘息や心疾患などの持病がある場合には、ベータ遮断薬は禁忌です。
射撃やアーチェリーの選手がベータ遮断薬を使うのは禁じられています。
ベータ遮断薬を使う演奏家は、実は少なくありません。演奏を間違えずにできる効果は大きいようですが、音楽に没入できないなどのデメリットもあります。
暗示催眠セラピー
コーチやカウンセラーのなかには、ネガティブ言葉を使わず、ありたい自分をポジティブな言葉にしたり、イメージしたりすることで、不安や緊張、手の震えがなくなると主張する方もいます。
それであがりや震えが改善することもありますが、ほとんどの場合、改善するのは軽症であるか、自己暗示や催眠にかかりやすい人。
近年、プラシーボ効果の生理学的な裏付けも明らかになりつつありますが、人の心は、身体に大きな影響を及ぼすことがわかっています。
しかし、劇的に改善する方法というのは、結局のところ、すぐに効果がなくなってしまうことの裏返しです。
一時的に脳をだましているだけだからです。
また、暗示催眠にかかりやすい人というのは、魔法のブレスレットやサプリメントなど、すぐに何でも信用してしまう「素直な」性格の方に限られます。
西洋医学の専門教育を受けた外科医にはそれほど多くはないと思われます。
手の震えを克服するための根本的な解決策
結局のところ、「常態化した手の震え」を解決するには、扁桃体に刻まれた「トラウマ・恐怖記憶」に対して働きかけるしかありません。
しかし、ご存じの通り、脳の可塑性から、一度刻まれた記憶は消すことはできません。
でも、諦める必要はありません。
記憶を消去することはできませんが、別の記憶で上書きして、弱くすることはできるのです。
ひどい失恋をした辛い記憶を早く忘れるには、新しい恋をしたり、仕事や趣味に打ち込むのが一番ですが、それは失恋記憶を上書きするからです。
このように考えると、手の震えというトラウマ反応を克服するには、手術の成功体験を重ていけばいいのです。
しかし、毎回手が震えて、手術がうまく行かないのだから、成功体験も積めないのが現実でしょう。
ここが一番のポイントなのですが、成功体験は「手が全く震えない」ことだけではありません。
むしろ、以下のような小さな進歩こそが、現実的な成功体験となります:
今日は昨日よりも震えが小さかった
震えは感じたが、以前ほど気にならなかった
手術の後半は、少し落ち着いて手技ができた
震えを感じても、パニックにならずに対処できた
このような小さな成功体験の積み重ねが、トラウマ的な悪循環を断ち切る第一歩となります。
それではどうすれば、小さな成功体験を生み出せるのでしょうか?
そこで私がお勧めするのがメンタルトレーニングです。
メンタルトレーニングの薦め
メンタルトレーニングとは?
メンタルトレーニングとは、心理的なスキルを向上させるための体系的な練習方法のこと。
メンタルトレーニングの歴史は1950年代に、旧ソ連のスポーツ心理学者たちが競技力向上のために開発したことが始まりとされています。
1960年代から70年代にかけて、欧米諸国でも注目され始め、特にオリンピック選手の育成に活用されるようになりました。
現在では、アスリートだけでなく、ビジネスパーソン、芸術家など、幅広い層の人々が活用しており、個人の成長や目標達成を支援する効果的なツールとして認識されています。
研究調査からも、メンタルトレーニングが私たちの脳機能や心理状態に具体的な影響を与え、日常生活やパフォーマンスの向上に寄与することを示唆しています。
メンタルトレーニングで何ができるのか?
手の震えに悩んでいる外科医にお勧めなのが、呼吸法とイメージトレーニングです。
次の記事は外科医向けに書いたものではありませんが、本番で力を発揮したいアスリート、演奏家、ビジネスマンへのメンタルトレーニングの基本姿勢をまとめたものです。
パターを持つ手が震えてしまうゴルファー、楽器を持つ手が震えてしまう演奏家、マイクやペンを持つ手が震えてしまうビジネスマン。
私はこれまでに多くの「手の震え」に悩む人たちへの指導経験がありますが、ほぼ全員に、ここで説明している呼吸法とイメージを中心としたメンタルトレーニングを指導し、結果を出してきました。
私のメンタルトレーニングの基本姿勢は、精神論や思考法ではなく、「メンタルスキルを高めることで、不安や緊張を少しずつコントロールできるようになろう」というものです。
地道なトレーニングだけがそれを可能にするので、地道なトレーニングを苦としないアスリートや演奏家との相性はとても良いのです。
緊張したときに深呼吸することで、緊張が少し和らぐように、呼吸法によって自律神経系の興奮を抑えることができれば、手の震えも小さくなります。
ただ、手の震えが常態化してしまった外科医にとっては、多少の深呼吸では、手術時に実感できるほどの手の震えの低減は起こりません。
ここで多くの方が諦めてしまうのですが、本当にもったいない。
呼吸法というトレーニングを重ねていくことで、少しずつ自律神経のコントロールができるようになっていきます。
ピアノでもゴルフでもそうですが、練習でできたことが、本番でできるようになるには、少し時間がかかります。
呼吸法も同じなのです。
少し時間がかかるかもしれませんが、簡単に諦めないで、じっくりと取り組んでください。
手の震えを解決するための第一歩
この記事を読んでいるあなたは、既に大切な一歩を踏み出しています。
自分の課題と向き合い、解決策を探ろうとする姿勢は、プロフェッショナルとしての誠実さの表れです。
手の震えに悩むことは、決して恥ずかしいことではありません。
それは、患者の命を真摯に考え、より良い医療を提供したいという強い思いの裏返しです。
完璧を求める姿勢があるからこそ、より強く意識してしまう問題なのです。
大切なのは、この悪循環のパターンを理解し、適切なアプローチを見つけること。
特に、心と身体の両面からのアプローチは、条件反射として定着してしまった症状を解きほぐす重要な鍵となります。
手の震えの問題は、一朝一夕には解決しませんが、適切なメンタルトレーニングと成功体験の積み重ねによって、必ず改善への道は開かれます。
重要なのは、完璧を求めすぎないで、小さな進歩を認識し、評価すること。
そして、必要に応じて専門家のサポートを受ける、一人で抱え込まないことです。
石井塾のコーチングプログラムを受けて、手の震えを改善できた、多くのアスリートや演奏家、そして数名の外科医や眼科医は、もっと早く受ければ良かったとおっしゃっています。
外科医が受講されるのでしたら、こちらのプログラムがお勧めです。
手の震えを克服するだけでなく、手術の質を高めるイメージまで徹底的に指導します。
この記事をきっかけに、あなたの持つ素晴らしい技術と経験が、より一層輝きを増すことを心から期待しています。
参考図書
ここで紹介する2冊の本は、私がとても参考にしているものです。
『エモーショナルブレイン 情動の脳科学』ジョセフ・ルドゥー著(2003/東京大学出版会)
扁桃体研究の第一人者であるNY大学教授の本。この本を丁寧に読み込むことで、扁桃体の無意識の反応に、どのように働きかけるのかのヒントがあります。アマゾンへのリンク
『なぜ月曜日は頭が働かないのか? 心が脳を変える』イアン・ロバートソン著(2003/朝日出版社)
アイルランドのトリニティー大学教授の本。
脳の可塑性という基本原則をベースに、様々なテーマで「脳のリハビリ」について論じています。そのひとつがトラウマ克服で、第3章「恐れや憎しみを乗り越える – ほどけにくい恐怖の刺繍」にまとまっています。アマゾンへのリンク